中沢啓治
(なかざわ・けいじ)
1939〜2012
広島市出身。国民学校1年生だった6歳の時に被爆。父と姉、弟を失う。その後、漫画家を目指し上京。母の死へをきっかけに、原爆、反戦をテーマにした作品を書き始め、2009年の引退まで数多くの作品を残した。
■「はだしのゲン」との出会い
中沢先生の代表作「はだしのゲン」は1972年に『週刊少年ジャンプ』(集英社)でなどでの連載後、汐文社で単行本化されました。
ここでは「はだしのゲン」が汐文社で発刊されるまでのエピソードを紹介します。
1975年1月に編集担当を拝命し、戸惑う私であったが、当時東京支社の代表を務めていた吉元尊則氏らとの企画会議でのアドバイスもあり、中沢啓治さんの「チンチン電車の歌」(赤旗日曜版連載)に目をつけた。ドキドキしながら当たって砕けろ!のつもりで、南砂町の都営住宅にお邪魔した。ここで、私と中沢さんとの奇跡の出会いがあった。中沢さんから「それも(『チンチン電車の歌』)出していいけれど、『はだしのゲン』を出して(出版)」と言われたのである。あまりのサプライズに、「原稿は、今ここにあるのでしょうか?連載元の集英社さんの意向は?」などと、震える声でお尋ねしたことを鮮明に覚えている。中沢さんには、その場で集英社の担当者に電話で確認をお願いした。
気づいたときには、4つの大きな紙袋を抱えて東西線南砂町駅のホームに立っていた。原画1100枚ほどが入った袋の重さに気づいたのは、御茶ノ水駅から外神田にあった会社までの300mの道のりだった。当時京都本社にいる社長の反応は「そんな長いもん(長編、当時のコミックでは5巻程度)出せへんで!」だったが、全員20代の東京支社のスタッフは一致して「はだしのゲン」の出版を後押ししてくれた。1975年5月、「はだしのゲン」(全4巻)はついに単行本として世に出たのである。朝日新聞東京の社会部遊軍におられた横田喬さんにお会いし、出版の経緯や連載中の読者の反応などをお話した。朝日新聞東京本社発行の夕刊社会面に7段抜きの大きな記事が掲載された。これを機に読売や毎日など全国紙が次々と記事を掲載してくれたが、多くのパブリシティの効果を見込んで各2万部発行したものの、8月末時点で返品の山となり、半分ほどが倉庫に積み上げられた。
そして、また奇跡が起きた。「3時のあなた」(フジTV系)だったと思うが、この番組で好意的に紹介され、くすぶっていた種火に一気に火がついたのである。その日の夕方から、取次の支店や書店から大量の注文が入り、その対応に追われて汐文社全体が大混乱、お祭りがやってきたときのように胸弾ませながら、仕事をする日々が翌年まで続いた。
当時の担当編集者、堀尾眞誠氏(『子どもの本棚』中沢啓治追悼特集より抜粋)
■追悼コメント
中沢啓治先生は2012年12月19日にこの世を去られました。
ここでは中沢先生への追悼コメントを紹介します。
○汐文社社長、政門一芳
「ご冥福を心よりお祈り申し上げます。父や母、姉、弟の命を奪った原爆を憎み、日本はもとより、世界中の人々に、漫画でその恐ろしさを訴え続けた中沢先生の遺志を継ぎ、汐文社は、核兵器の廃絶、世界平和への想いを、後世に伝え広げる使命を負っていきます。」
○「はだしのゲン」汐文社発刊当時の社長、吉元尊則(朝日新聞より)
「1970年代半ば、子ども向きの漫画を描いてもらうつもりで訪ねたとき、押し入れをあけて「ぜひ読んで、単行本にしてほしい」と出してきた段ボール箱に入っていたのが「はだしのゲン」だった。被爆体験と、それでも人間は強く生きていくんだというメッセージを、漫画という彼ならではの技術で伝えた特異な人。彼が亡くなったことでまた一つ、原爆が遠のくことになる。」
○松井一実広島市長(読売新聞より)
「原爆を忘れてはならないという強い信念で描かれた『はだしのゲン』は、国内外に被爆の惨状を伝え、若い世代に体験を直接語り継ぐ作品。『人類の最高の宝は平和』という思いは間違いなく次世代に受け継がれ、共有されるでしょう。」
○「はだしのゲン」週刊少年ジャンプ(集英社)連載時の担当編集者、山路則隆氏(毎日新聞より)
「漫画を描くために、当時の体験を何度も頭のなかで再現するのだろう。1話を描き上げるごとに憔悴する先生の姿が残っている。少年誌に掲載されたことで、子どもたちが時代や原爆の問題を考えるきっかけになったと思う。」
○朝日新聞天声人語(12/26、抜粋)
「「ゲン」は絵本も含めて1千万部を超え、18カ国語に翻訳された。生前最後の本になった『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社)でささやかな喜びを述べている。国内の図書館で、表紙が手垢でぼろぼろになってベニヤ板で留めてある「ゲン」を見たそうだ。「うれしくてね。作者冥利に尽きます」。73歳の訃報に、多くの読者が胸に刻み直すことだろう。原爆の悲惨と、それでも麦のように伸びて生きる少年の姿を。」